聖光学院中学校高等学校

祈り~わが校の原点

「祈り~わが校の原点」

聖光学院中学校高等学校
校長 工藤 誠一

聖光学院はカトリックのミッションスクールです。その教育の根底にあるのは祈りです。

「門から入らず、他の処からのりこえて羊の柵の中に入り込んで来るのは盗人であり、掠奪者である。門からはいるのは羊の牧者である。すると門番は彼のために門を開く。羊は彼の声を聞き、彼は自分の羊のおのおのの名を呼んでひき出す。」

(ヨハネ福音書10章1~3)

よき羊飼いに教育者の姿を重ね合わせて見ることができます。牧者は羊を盗み、掠奪するため、つまり私利私欲のために来るのではなく、「羊たちに生命を、それも豊かな生命を得させるために来る」のです。そして、その豊かな生命は、羊が日々おのおのの名前で呼ばれ、引き出されることの繰り返しを通して得られてゆくのです。教育という言葉の語源はこの「引き出す」ということにあります。

日々の学校生活の中で、私はできるだけ生徒たちの名前を覚え、声をかけることを心がけています。また、生徒たちとたわいないことでもおしゃべりをすることも大切なことと考えております。そうした折々でも、本当に相手の気持ちを自分は理解しているのだろうか、あるいは、自分の口からでた言葉が却って相手の気持ちを傷つけてしまわなかっただろうかと不安に思うことがしばしばあります。また、省みると対応として適当でなかったのではないかと自戒することも少なからずあります。

イエスが家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまのもないほどになった。イエスがみ言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れていくことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。

(マルコ福音書2章1~5)

私たちは、人の苦しみや悩みをわかっているつもりになって、様々な言葉を投げかけ、さらには手助けもしようとします。四人の友人たちもこの病人の苦しみをわかっているつもりでいたのでしょう。苦しみの原因は中風であるのだから、それが直ればいいと思ってイエスのもとへ運んでいったわけです。イエスがこの人に言われたことは「あなたの罪は赦される」でした。この人は、中風で苦しんでいたというのは全くの見当はずれではなかったのでしょうが、周囲の友人たちは、苦しみの中心を見抜いてはいなかったのです。
人の苦しみがどこにあるかということはなかなかわからないことだと思います。私たちも子どもたちの表情を見て、暗い顔をしているのは、試験の成績が悪かったからだろう。学校がつまらないと言っているのは友達がなかなかできないからだろうと、その原因を勝手に思いこんでしまうこともあります。とりわけ、私たち教員は学校という狭い枠の中だけで考えてしまいがちな傾向もあります。もちろん、その指摘が、完全に的をはずれているわけではないのでしょうが、的中しているということも滅多にないと思います。どうしても、周囲の者は「こうなってほしい」という尺度で考えるのに対して、本人の「こうありたい」という思いとは、ずれが生じてしまうのです。まして、私たち大人と若者である生徒の間には、その隔たりが大きいこともしばしばあるものです。

愛する者は沈黙します。相手を愛すれば、愛するほど饒舌な語らいは不要であるかもしれません。言葉だけではその思いを伝えることはできないからでしょう。感謝する者は沈黙します。人に謝するときも、人から謝せられるときも、沈黙が根底にあるものです。むしろ何事もなかったような状態こそが望ましいものではないでしょうか。
沈黙は祈りです。そして、生徒たちを愛し、彼らに感謝するというのは、「神様、この生徒はここがこのように苦しいでしょうから、助けてあげてください」という願いよりも、その生徒をただ神様の目の前に置いてあげるという祈りになるのではないでしょうか。