聖光学院中学校高等学校

2016.4校長メッセージ「『慈しみ』のために」

「慈しみ」のために

 4月5日の入学式は桜が満開であった。卒業式には梅が咲き、その後には新しく植えた緋寒桜の花が咲いていた。この木は校舎の建て替えを行った際に新たに植えた木なので昨年は花をつけることはなかったが、今年は薄紅色の花が咲いていた。
 2016年はカトリックでは「いつくしみの特別聖年」とされている。

 最近の国際情勢を見ると、フランスでのテロ、シリアの難民、サウジアラビアとイランの国交断絶に始まる関係諸国の対立、北朝鮮による核実験など、国際平和を脅かす諸問題があります。国内においても、お年寄り、中高年、若者、子どもという各世代における格差拡大に貧困の広がりは深刻な問題となっている。
 年末から年始にかけて、『解を探しに』というタイトルで、日本経済新聞の社会面で7回にわたって連載がなされていた。
 そのタイトルだけを紹介すると

「かつて中流 今漂流 転落は突然に訪れる」
「標準世帯の呪縛なお ひとり親の苦労続く」
「団塊女子覚悟決めた 長い老境に向け備え」
「何のために働くのか すれ違う会社と社員」
「老いて消えゆく故郷 共同生活、維持難しく」
「憧れた国 つらい現実 外国人へ理解進まず」
「子育て地縁も育てる 親の孤立を防ぐ知恵」

 記事の内容についてまでは言及できないが、明確な解を見出せない現在の日本が抱える諸問題の複雑さを、タイトルだけからも感じ取ることができる。

 これは成果主義、利益至上主義が支配する現代産業社会の現実であるとも言えよう。産業社会でなくても、インターネットの普及により、日常生活においても瞬時に世界各地の情報を知ることができる。 個人生活においても、ラインなどを通して即座にしかも四六時中、友人たちとつながっていることができるわけだ。かつては、工場労働者になると機械に支配されてしまう産業革命以後の人間の姿を描いた、『モダン・タイムス』というチャップリン主演の映画もあった。今や、普通に日常を送るだけでも文明の利器に支配されているといったような状況が生まれている。

 こんな寓話がある。

 ある町のはずれに、もう、人がだれも住んでいない古びた建物がありました。そこに、どこからともなく一人の少女が来て住み着きます。名をモモといいました。そのモモが来てからというもの、町の人たちはモモのところに行って、家庭内のいざこざとか、町の中の出来事とかを話すようになり、聞き上手のモモは飽きもせずに話を聞いてやります。子供たちはモモのところにいって遊んでもらい、その町は平和で落ち着きのある町になっていました。
 ところが、ある日のこと、頭の先から足の先まで灰色ずくめの男たちがやって来て町の人たちに向かって、
 「あなたたちは大変時間を無駄にしている。たとえばモモのところに行って、くだらない話をしているじゃないか。たとえばお客さんと世間話をして、ゆっくりとお客さんの髪を刈ったり、靴を磨いたりしているじゃないか。たとえば好きな人と時間も忘れて話し合っているじゃないか。そんな時間は無駄な時間で、時間というものはできるだけ切り詰めて、節約して、余った時間を時間貯蓄銀行に預けるものなのだ。そうすると、あなたたちは金持ちならぬ時間もちになることになるのだよ」
 と言って、町の人たちに新しい生き方を教えました。それまで、そんなことを考えてもいなかった町の人たちはびっくりします。でも考えてみると「なるほどそうだ、俺たちは時間を無駄にしていたのか」と思うようになりました。
 そこで、その日から、町の人たちの生活は一変します。世間話をしながら30分かけてお客さんの髪を刈っていた床屋さんは、押し黙って仕事をして20分で仕上げ、残った10分を時間貯蓄銀行に預けます。お医者さんもお店の人も、全部仕事をするだけの人間になってしまいました。
 ちょっとでも自分たちの仕事の邪魔をする人たちをにらみつけて、怒りはじめ、町の人たちの中にはケンカが絶えなくなってしまいます。そこで、モモは灰色の男(時間泥棒)たちと闘って、その時間を町の人たちに取り戻すのです。

ミヒャエル・エンデ作『モモ』より

 町の人たちは自分が時間を貯めているとばかり思っていたのだが、実はその貯めていた時間は、時間泥棒たちのエサになるものであった。彼らはいつも長い葉巻をくゆらせているが、そのくゆらせているもとは、町の人たちが必死に貯めた時間であった。くゆらせるもとの時間がなくなると時間泥棒たちは死んでしまう。だから、さも人間たちのためであるような言い方や偽りのいつくしみで「時間を貯めなさい」と吹聴し、四六時中働かせ、その時間を自分たちが良いようにくすねて生きていたわけである。

 さて、この「いつくしみの特別聖年」にあたり、フランシスコ教皇様は「いつくしみの特別聖年」公布の大勅書『イエス・キリスト、父のいつくしみの顔』2項の中で、次のようなことを述べておられる。 「いつくしみは喜びの源、静けさ、平和の泉です。いつくしみは、わたくしたちの救いに不可欠です。いつくしみ、それは人生の旅路で出会う兄弟と真摯に向き合うとき、それぞれの心の中で働く、基本となる法です。いつくしみそれは私たちの罪という限界にも関わらずいつも愛されているという希望を心にもたらすもので、神と人とが一つになる道です。いつくしみの聖年を迎えた今、わたくしたちの思い、言葉、行いの証を通して神様のいつくしみを多くの人にもたらす人として行動するように心がけてほしいと願うものです。」

 入学式、始業式と、本校でも新たな年度が始まった。子供たちの教育で必要なことは、学校であっても、また家庭であっても、「慈しみ」であることは間違いない。