聖光学院中学校高等学校

2014.4 校長メッセージ「花開くときに」

花開くときに

今年は、関東地方にも大雪が二度も降り、例年になく寒さが厳しい冬であった。日本には行蔵という言葉がある。その意味は、進んで世に出て手腕をふるうか、世間から身を引いて暮らすか、出処と進退を指す言葉である。日本では進学、就職、転勤など、人生の節目となるような選択を1月から3月の寒い時期に迫られる仕組みになっているようである。この時期、多くの学校が卒業式を迎え、手塩にかけた子供たちを次の段階へと送り出している。

詩人の大岡信さんが、京都の嵯峨野で見た桜色に染まった糸について次のように書かれていた。
「素人の気安さで、私はすぐに桜の花びらを煮詰めて色をとりだしたものだろうと思った。実際は、これは桜の皮から取り出した色なのだった。その黒っぽいごつごつした桜の皮から、この美しいピンクの色がとれるのだという。この桜色は、一年中その季節でもとれるわけではない。桜の花が咲く直前の頃、山の桜の皮をもらってきて染めると、こんな、上気したような、えもいわれぬ色が取り出せるのだ、と。
春先、もうまもなく花となって咲き出ようとしている桜の木が、花びらだけでなく、木全体で懸命になって最上のピンクの色になろうとして姿が、私の脳裡にゆらめいたからである。花びらのピンクは、幹のピンクであり、樹皮のピンクであり、樹液のピンクであった。桜は全身で春のピンクに色づいていて、花びらはいわばそれらのピンクが、ほんの尖端だけ姿を出したものにすぎなかった。」

大岡 信「言葉の力」

花の開花はその一部を見せているだけで、実は全身で花を咲かせようとしているのである。このことは私たちが、目標を達成しようとするのであれば、見えるところ見えないところを含めて、懸命に努力する必要性を暗示する一節でもある。わが国の子供たち、若者の多くが将来に希望が持てないと答え、高齢化に伴う負担ばかりが重くのしかかっている世代であると思い込んでいる。

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」

コリントの第一の手紙10章13節

私たちは神様から与えられた命を日々生きており、夜に眠りについて、朝に目が覚めるというのは奇跡の一つであり、私たちは生かし生かされている存在なのである。私たち自身がそうした小さな存在であることを自覚すると、嫌なこと辛いことがあって嘆きたくなっても、「これでいいのだ」と精いっぱいやったことを納得できるようになるのである。聖書にある通り、神様は私たちが乗り越えられないような試練を課すことはないのである。私たちは、困難に立ち向かった時に、神様から与えられている力を余すことなく発揮することを求められている。たとえ、花開く部分が少なくとも、その花は自分自身がもつすべてのエネルギーを集中させて咲かせたことを神様は理解してくださるのである。
花の季節、わが校の正門までの道も桜色に染まっている。その中を今年も第57期の新入生を迎えることができた。彼らも努力の甲斐あって小さな花を咲かせたのであろう。そして彼らの後ろ姿には神様の温かなまなざしが注がれていることを感じることができるのである。